東庄の山城を知る

東氏ゆかりの地である東庄町。
かつてこの地には、東氏が築いた山城がありました。

観光協会では御城印の販売を行っています。詳細はお問い合わせください。
須賀山城
沼かけ城

東庄町観光協会にて、1枚300円で販売しています。

山城の解説と御城印デザインの説明

須賀山城(すかやまじょう)

須賀山城は中世には「香取の海」と呼ばれた広大な内海に面する台地の上に築かれました。標高50mほどの城山の周囲は、かつては低湿地に囲まれていたと思われ、天然の要害となっています。

源頼朝の旗揚げの際、ともに戦って功を上げた千葉(東)胤頼が、東庄と三崎庄(旭市)を拝領しました。そして居館を築いたのが須賀山城の始まりと考えられており、代々、東氏の居城として利用されていきました。

ちなみに胤頼は、三浦義澄とともに源頼朝に挙兵をすすめたとされる頼朝の側近中の側近です。

その後、須賀山城が手狭になったためか、西側に森山城が築かれ、両城が一体をなしながら戦国の城へと改修整備されたと思われます。

千葉氏が小田原北条氏に属すと、常陸の国境である須賀山城、森山城はさらに重要性が増し、須賀山城は森山城の「外郭部」としてさらに改修整備されていった思われ、城内には戦国期の遺構が良好に残っています。

西麓の東氏の菩提寺である芳泰寺には、胤頼夫妻のものと伝わる墓が残っており、また、北東麓の東福寺は胤頼の父である千葉常胤ゆかりと伝わる薬師如来を本尊としています。

さらに、この寺には天正6年(1578年)の千葉邦胤に関する古文書も伝わっており、戦国時代になってもこの地域と千葉一族の繋がりの強さがわかります。

デザインの説明

御城印には、連携して機能していたであろう須賀山城と森山城の築かれた台地と、かつて北方に広がっていた「香取の海」をデザインしました。そして、千葉一族である東氏の家紋「九曜」を配置し、東常縁の絵図をモチーフにしました。

常縁は、東氏のもう一つの所領であった美濃国の篠脇城主でした。享徳の乱の際に下総で千葉氏の内紛が起きると、室町幕府から東国に派遣され、森山城に入ったとされます。また、東氏は代々和歌の家柄で、特に常縁は古今伝授を行えるほど、当代きっての一流の歌人でした。東氏の祖である胤頼も和歌や文化に秀でていて、朝廷から昇殿を許される従五位下を賜っていました。

なお、東庄町発行の須賀山城、沼闕城の両御城印は、日本のみならず海外でご活躍の英国王立美術協会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫いただきました。

沼闕城(ぬまかけじょう)

沼闕城は、「東庄県民の森」となっている比高20mの台地に築かれ、かつて存在した「椿の海」に向かってそびえ建っていたと思われます。大部分が公園化して原形が失われてしまっているものの、要害だった趣を十分に残しています。

現在、補陀洛山福聚寺が建つ場所は、沼闕城の主郭だったと思われ、周囲には土塁、空堀、腰曲輪などの遺構が残ります。

北方は「香取の海」に面し、陸奥に繋がる交通の要衝でもありました。

源頼朝の鎌倉幕府設立に尽力した千葉(東)胤頼の三男盛胤が居館を築いたのが始まりとされ、その後も千葉氏の庶流である東氏が沼闕城主となりました。

東氏は戦国時代には主家の千葉一族とともに小田原北条氏に属し、天正18 年(1590年)の小田原合戦で滅びたとされます。

沼闕城はその地名から、別名「小南城」とも呼ばれ、この小南には徳川家康の関東入封の際、松平(久松)定勝が3000石で入部しました。定勝は家康の義弟で、伊予松山藩祖となる人物です。

このことからも、沼闕城が築かれた小南の地の重要性がわかります。

デザインの説明

沼闕城の南方にはかつて「椿の海」が広がっていました。椿の海は、海上(うなかみ)、香取、匝瑳(そうさ)の3 郡にわたり、東西10kmを超える大きな湖でした。

寛文11年(1671年)に、鉄牛和尚が干拓事業を完成させました。それにより、18の村ができ、「干潟八万石」と呼ばれる一大穀倉地帯となりました。椿の海は、城下にある「八丁堰」として名残りをとどめています。

その功績により、鉄牛和尚は寺地を幕府から寄進され、福聚寺を建て晩年を過ごしました。

御城印には椿の海と、その椿の海に向かって張り出す沼闕城の台地をモチーフにしました。そして、千葉一族である東氏の家紋「九曜」をデザインしました。

なお、東庄町発行の須賀山城、沼闕城の両御城印は、日本のみならず海外でご活躍の英国王立美術協会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫いただきました。

和田城(わだじょう)

和田城はかつての椿の海から入り込んだ入江左岸の丘陵に築かれました。周辺を湿地に囲まれた要害だったと思われ、「舟戸」の地名が残ることから、水運と密接に繋がっていたことが分かります。谷を挟んで南方には桜井城、入り江を挟んで北東に大友城があることからこの地域の重要性が分かります。さらに、須賀山城、森山城、小見川城などの主要城郭へ続く北進する街道が付近を通っていて、まさに水陸の要衝地です。

和田城の築城等の詳細は不明ですが、千葉一族である上代(かじろ)氏の居城であったと伝わり、城内には千葉神社が鎮座しています。千葉神社の北方直下には三日月形の横堀が掘られ、さらに一段下に横堀が入り、そこから雛壇状の曲輪が続いています。その下は根小屋集落が形成されていたと考えられ、今でも当時の雰囲気を色濃く残しています。

和田城は主要な2つの曲輪で形成され、その曲輪を守るように横堀、土塁、腰曲輪が施されていて、戦国時代の城郭の姿を良好に残しています。

▼デザインの説明

千葉一族である上代氏の居城と伝わる和田城の御城印は、千葉氏の家紋「月星」、「九曜」をデザインしました。そして、椿の海へと続く水上交通の要衝地だったと思われることから、近くを船が行き交う様子を描きました。

和田城には合戦が行われた伝承が残っています。真偽のほどは定かではありませんが、正木氏の下総侵攻の際にこの地域がかなり緊迫した状況下に置かれたことが推察され、戦死者を祀ったと伝わる「左右大神」などが残ることから、和田城周辺で何らかの戦闘があったことが推測できます。そのため、御城印には和田城で奮戦する上代氏とその家臣団をイメージしました。

なお、東庄町発行の和田城の御城印は、日本のみならず海外でご活躍の英国王立美術協会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫いただきました。

大友城(おおともじょう)

大友城は椿の海の最北端に位置する半島状に突き出た標高約50mの舌状台地に築かれました。城域は東西約100m、南北約300mに及ぶとされ、「政所台」「遠所台」という字名が残っています。政所台は二の丸、遠所台は主郭にあたるとされていて、地形を活かした連郭式の構造になっています。

大友城は、古くは長元元年(1028年)に朝廷に対する反乱(平忠常の乱)を起こした平忠常の館跡とも伝わっていますが、今に残る遺構は戦国時代のものと思われます。

このように築城についての詳細は不明ですが、立地的に考えると、東氏や海上氏など千葉一族に関連する城館だと推察されます。

城域の大部分は畑になっているものの、わずかながらも土塁、空堀、腰曲輪などが残っています。字名として「鍛冶屋敷」「旗口」「兵岬」など、城と関連が想像される地名も残っています。

▼デザインの説明

『香取郡誌』によると、大友城は平良文の居城と伝わっています。平良文は桓武平氏良文流の祖とされ、千葉一族、三浦一族など坂東を代表する氏族を輩出しました。

また、『今昔物語集』には平忠常の乱の平定のため、源頼信が忠常の居館に向かう際の記述があります。それによると、頼信が鹿島神宮から南下して利根川の北岸に至ったところで、「忠常の居館は内海に入った場所にある」と記されています。この記述により、平忠常の居館は大友城と考えられています。

大友城が平忠常の居館という伝承に基づき、大友城の御城印には平家の家紋を入れました。あわせて、忠常の乱を平定した源頼信に因み、源氏の家紋をデザインしました。そして、江戸時代に描かれた平忠常の乱を題材にした『源頼信 平忠常 大椎城水攻之図(歌川貞秀)』をモチーフにしました。忠常の生きた平安時代とは、時代の合わない天守閣などが描かれているものの、城の周りは海になっています。椿の海に面して築かれ、水上交通の抑えの役目を担っていたと推察される大友城の特性を描いていて、大変貴重な絵だと思われます。なお、絵の表題は「大椎城」になっていますが、近年では平忠常の本拠は大友城の可能性が高くなっているため、この絵をモチーフにしました。

あわせて、大友城は戦国時代には千葉一族の家紋「月星」と「九曜」を配置しました。

なお、東庄町のすべての御城印は、日本のみならず海外でご活躍の英国王立美術協会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫いただきました。